お便り紹介 13

一之貝物語
 今は、一之貝でもコンバインで刈り入れが普通に行われて段々だった田んぼもブルトザー等で均して平野化していると思います。

 わが家には、鬼倉山の麓に車が入れない田んぼがありました。親戚より譲り受けた所で一之貝小の敷地位広さがあり、茅葺きで二人位屈んではいれる小屋がありました。

 小屋の周りには、炭焼の窯後が数ヶ所あり、池もありました。近くに水場があり休憩やお昼に鉄瓶でお湯を沸かし、お茶や即席の味噌汁を飲みました。初めは、稲をハゼ場で干してから背負ったり、一輪車で片道6分位掛け耕耘機の所ま で運びました。余りに大変なので6帖位の小屋を造り、脱穀機を運びいれ脱穀してから袋に入れて一輪車で耕耘機の所まで運びました。稲を運ぶより、バランスがとりやすくて楽になりました!今になってですが、小屋の材料や脱穀機は、どうやって運んだのかと不思議に思っています。

 車は入れず、一輪車もケモノ道のような所に坂もある所を運ぶのは大変だったと思います。驚いた事に祖父の話では、まだその奥に田んぼがあって田んぼの家の方はバイクで通っていたそうです。収穫したお米をどうやって運びだしたのか!?(今となっては、聞く人も無し)小屋の脇の竈でお湯を沸かして、お茶を飲んだり、木の実や山葡萄を食べたりするのが楽しみでした。

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コメント: 1
  • #1

    ミヤマオクヤ (金曜日, 24 10月 2014 10:09)

    鬼倉山懐かしいですね、私が小学5~6年の頃大平橋と雷の間の田圃より田植え用の苗を麻袋の中に入れ、兄や姉達と鬼倉の西側を徒歩で奥の田まで運んだ事がありました。田圃の100~200メ-ター上は鋸山に行くであろうハイカ-達がヤッホ-ヤッホ―と声を掛けて行くのが見えました。鬼倉には雷の人から聞いた話ですが畳6畳位の洞窟があり、炭焼きの人達がそこに炭を入れていた事もあったとの事です。又、大昔は軽井沢の茨木童子が住んで居たとの話も有るようです。私は30代の頃山菜採りのついでに探した事がありますが残念ながら見つけられませんでしたが楽しい思い出です。鬼倉の事を書いて頂きありがとうございました。